教育を経済学的に分析する応用経済学の一分野、「教育経済学」に注目が集まっています。
その第一人者である慶應義塾大学総合政策学部教授、中室牧子氏の著書「学力の『経済学』」は30万部を超えるベストセラーとなっています。
子どもの教育について行われた研究は、社員教育やモチベーション管理にも応用が可能です。
連載第1回目となる今回は、多くの実験結果から導き出された効果的な「目標の立て方」についてお届けします。
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最も生産性が高まった「自宅にピザ」のインセンティブ
子どもを対象にした研究では「ご褒美」と言い方をするのですが、これは広義の「金銭的インセンティブ」です。企業で業績が良い時に支払われるような「ボーナス」もこれにあたります。
経済学者がご褒美やボーナスを「インセンティブ」だと捉えている背景には、これらが人の行動を変える動機づけになりうると考えているからです。
このため、インセンティブは必ずしも金銭である必要はありません。例えば、「褒める」というのもインセンティブです。褒められれば嬉しいと感じますから、その結果、意欲が沸いて、いつもより余計に頑張ったという経験は誰にでもあるはずです。
では、この「インセンティブ」をどのように用いれば、企業における生産性を高めることができるのでしょうか。普通に考えれば、ご褒美やボーナスをもらえればもらえるほど従業員のモチベーションは高くなり、生産性は高くなるだろうと予想されます。
ところが、インセンティブと生産性の関係はそんなに単純には決まっていません。このことを明らかにした面白い研究があります。
それは、著名な行動経済学者で、米デューク大学の教授でもあるダン・アリエリーが行った有名な実験で、ハイテク製品を製造する工場労働者を対象に行われたものです。
労働者らは、ランダムに4つのグループに分けられます。業績に応じたボーナスとして少額の現金を受け取ることができるグループ、上司からの誉め言葉を贈られるグループ、自宅にピザが配送されるグループ、そのいずれも対象にならないグループです。いずれも対象にならないグループと比較すると、最初の3つのグループは5%近く生産性が高まったのですが、最も生産性が高まったのは、現金を贈られたグループでも、上司から褒められたグループでもなく、自宅にピザを贈られたグループだったということがわかっています。自宅に送られたことで家族からの尊敬を得られたことが大きな意味を持ったのではないかとみられます。
一方、このボーナスの制度そのものがなくなった後、少額の現金を受け取ったグループの生産性はすぐに元に戻ってしまったのに対して、上司から褒められたグループの生産性は落ちなかったというのです。
つまり、インセンティブと生産性の関係というのは、そう簡単に解き明かすことができません。
お金をかければかけるほどよいというわけではなく、方法を誤ると、かえって人の意欲を削ぎ、思わぬ結果をもたらすことがあります。
例えば、献血に参加する人を増やそうとして、献血をした人に少額の現金でお礼をすると、献血に参加する人が減ってしまったことを示す有名な研究もあります。
このように金銭的インセンティブを用いることが裏目に出てしまったことを示す研究も多くあります。
「〆切を設定する」ということ
私が最近、大学生の研究成果を高めるために行っているのは、「〆切を設定する」ということです。
企業においても、プロジェクトや製品の納期など〆切に直面することは多いと思われます。これをどうコントロールするかということです。
前出のアリエリー教授らによる大学生を対象にした実験では、約100人の社会人学生を対象に3本のレポートを提出するよう求めました。
このレポートは、提出が1日遅延するごとに点数から1%ずつ差し引かれるルールになっていましたから、遅れないようにすることが肝心です。ただし〆切については2つのパターンがありました。
学生は、3本のレポートに等間隔で〆切が与えられているグループ、または2本目までは学生が自分で自由に〆切を設定できるグループのいずれかにランダムに割り当てられたのです。
この結果、等間隔で〆切が与えられているグループのほうがレポートの成績がよかったことが明らかになりました。
驚くべきことに、自分で〆切を設定できるグループに割り当てられた学生のうち、3分2以上が、期末にまとめるのではなく、学期の途中に自ら〆切を設けて、期末にレポートが集中しないようにしていました。
それにもかかわらず、成績が良かったのは、等間隔で締め切りが与えられているグループのほうでした。つまり、既に社会人経験があるような大人の学生も、自ら最適な〆切を設定するのは難しいということになります。
これ以外にも、細かく〆切を設定に、成果を確認することは、何でも先延ばしする傾向のある学生ほど効果が高いことを示した研究がありますから、部下自身に〆切を決めさせるよりも、ある程度上司が工程管理をするというのが合理的なのかもしれません。
目標を立て、公言することで先延ばし行動を回避する
これ以外に、「目標を設定する」と言うのも重要です。目標を設定することは「自分の将来の行動にあらかじめ制約をかける」という「コミットメント」です。
私たちはよく、自分がなかなか達成できないような(たとえばダイエットや禁煙など)を、わざわざ他人に宣言してから始めることがありますが、これがまさに目標設定とコミットメントです。
これはお金がかからずだれにでもできることであり、非常に有用です。
「目標を立てるというコミットメント」の秀逸な事例として、ロート製薬の「卒煙ダービー」をご紹介します。ダービーとは競馬のレースのことです。
ロート製薬では、禁煙をしたい従業員を募集し、出走する馬に見立て、壁に貼り出しているそうです。周囲の従業員は、禁煙に成功しそうな禁煙挑戦者に投票します。
挑戦者が禁煙に成功すれば、当該の挑戦者に投票して賭けた人がオッズに従って食堂のパンやコーヒーの無料券を得られます。
報道によると、卒煙ダービーにエントリーした挑戦者は、全員が禁煙に成功したということです(2019年6月19日、日本経済新聞)。
つまり、挑戦者は、「禁煙する」という目標を立て、それを公言することで周囲からの監視やサポートを得、(「禁煙するのは明日から」という)先延ばし行動の回避に成功したというわけです。
先ほど、〆切を自分で設定するのが難しいというお話をしましたが、目標設定についてはこれと逆であることもわかっています。
オランダで約1、000人の大学生を対象にした実験では、大学の1学年上の先輩が新入生の後輩と定期的に面談を重ねながら、大学の勉強をサポートする仕組みを利用し、新入生が自ら目標を設定するグループと、先輩が新入生に指示して高い目標を設定するように促すグループのいずれかにランダムに割り当てられました。この結果、自分で目標を定めた前者のグループは成績が改善しましたが、先輩から提案されて目標を設定した後者のグループは改善しませんでした。
つまり、目標というのは「ある程度達成可能な」ものを自分で設定しなければならないということでしょう。
目標設定を他人任せにして、とても達成できないような高い目標を掲げると、かえって目標へのコミットメントを低下させてしまうことになります。
(第2回に続きます)
Profile
中室牧子 氏
奈良県出身。慶應義塾大学環境情報学部卒業。米国コロンビア大学で博士号を取得。
経済学の理論や手法を用いて教育を分析する「教育経済学」が専門。
日本銀行や世界銀行勤務後、2013年から現職。産業構造審議会等、政府の諮問会議で有識者委員を務める。
東京財団政策研究所研究主幹、デジタル庁デジタルエデュケーション統括も兼ねる。
著書「『学力』の経済学」(ディスカヴァー・トゥエンティワン刊)は発行部数累計30万部以上を記録している。
- 「学力」の経済学
「データ」に基づき教育を経済学的な手法で分析する教育経済学の視点から、教育や子育てを解説した一冊。これまで思い込みで語られてきた「教育」を、科学的根拠を元に分析する。
中室牧子著 / ディスカヴァー・トゥエンティワン刊 / 1,420円(税込)