世界的なアスリートを父に育った室伏広治氏。幼少期から抜群の身体能力を持っていた彼は、父と同じハンマー投の道へと進む。当然、「将来はオリンピック選手に」と夢見ていたのかと思いきや、「とてもそのようには思えなかった」と話す。その真意はどこにあるのか。話を聞いた。
取材・文/山口和史 Kazushi Yamaguchi 写真/西田周平 Shuhei Nishida
重信氏の影響でハンマー投選手の道へ
- そのキャリアを俯瞰すると、「史上初」「記録保持者」「連覇」といった文字が並ぶ。オリンピック日本代表には4回選出。アジア大会5連覇、日本選手権 連覇などの金字塔を打ち立てたハンマー投選手として活躍し、「世界の鉄人」と呼ばれた室伏広治氏は、自身の幼少期を振り返ってこう語る。
室伏 広治 氏 (以下 室伏氏): 父(室伏重信氏)がハンマー投のオリンピック選手でしたので、スポーツが身近にある環境でした。私が物心ついてからも競技を続けていましたので、競技会を見に行ったり、国際試合を見せていただいたりしていました。
また父は、大学で教授職もしていましたので、授業が終わると大学の施設で大学生の選手たちと遊んだり、陸上をはじめ、様々なスポーツを行う機会があり、常に隣にはスポーツがありました。
- 室伏氏は1974年に静岡県沼津市で生まれた。幼少期は愛知県豊田市で過ごしている。自然豊かな環境で伸び伸びと育った。
室伏氏 : 友だちに誘われていろいろな遊びをしました。比較的、自然が豊かなところでしたので、山で遊んだり、近所の子どもたちと遊び回っていました。
- 実父がオリンピック選手。それもパイオニアでありエキスパートでもある有名選手ということは、子ども心に誇りであったのかもしれない。
室伏氏 : 父が有名でしたので、『その息子だ』みたいなね(笑)。そういう意味では、注目されていたりはしましたけどね。室伏という苗字も珍しいですしね。室伏っていうんだ、もしかして? みたいな、そういう環境でもありました。有名なのは父であって自分じゃないのに(笑)。
- 身体能力には幼少期から恵まれていた。幼少の頃は水泳、テニス、野球、少林寺拳法、ゴルフなど、さまざまなスポーツを経験した。
中学では陸上部に所属。走り幅跳びや三種競技などに取り組んだ。高校入学後はハンマー投で頭角を表しはじめたものの、一つの競技に絞らず、1年間は様々な競技を体験しながら行い、3年生あたりからハンマー投に集中して取り組むことになる。
室伏氏 : いろいろな競技をやらせていただきましたね。その中で、最終的に向いているのはハンマー投ではないかということで、ハンマー投の道に、入っていくことになりました。影響ですか? もちろん父の影響です。父がいなかったら、やっていないと思います。
ハンマー投への挑戦と世界を目指した軌跡
- ハンマー投に取り組むや否や、すぐさま結果を出す。日本高校新記録・高校最高記録を樹立し、インターハイでは1991年・1992年と2連覇を達成している。
父親の背中を見て育った室伏氏。
当然、オリンピックでの金メダルを夢見ていたのかと思いきや、そうではなかったと話す。
室伏氏 : 無理ですね。当時はそんなレベルにいけるとは思っていませんですし、自分にとってオリンピックはほど遠いと思っていました。それはハンマー投という競技が、技術を習得するのに時間を要する競技だということをよく知っていたからです。オリンピックを目指すレベルはもっと先の話であって、その前にいくつも関門がありますよね。当時はそこしか見ていませんでした。
そう思っていたのは、幼い頃から父が競技をやっている様子を見て、その難しさを知っていたのも一因かもしれません。記録を出すのがどのくらい難しいことなのか。70メートル投げること、80メートル投げることがどれくらいの難しさなのか、幼い頃から分かっていたからかもしれません。
- 100年以上のオリンピックの歴史の中でも、アジア人がハンマー投で活躍できたケースは少なく、その少ない中に父が含まれており、小さい頃から身近に接する機会が多かったことが、室伏氏の躍進につながっているが、一方、だからこそ、世界レベルで戦うことの難しさもよく分かった。
競技を始めて結果を残しても、決して浮かれることなく冷静に自身の課題に目を向けることができた。
室伏氏 : 若い頃は、父の指導の影響もあり、ハンマーを投げる技術のセンスはあったと思います。しかしながら、ハンマー投選手として必要とされる、体力や体型に関しては劣っており、世界を目指す上では難しいと思っていました。
父も含め、多くの指導者の方々は、私がハンマー投げで大成するとは誰も思ってはいなかったと思います。
- 室伏氏は身長は187センチあるが、高校入学時は体重が70kg台と軽かった。ハイジャンプや、ランナーに間違えられることが多かったという。また世界トップ選手になっても、100kgを切るほどの体重であったため、世界選手権や、オリンピックでの召集所で、同じ時間帯に行われていた男子100mの召集場に係員に間違えて案内され、それを見ていた同じハンマー投選手の仲間達に笑われたほどだった。
室伏氏 : そのようなハンディを克服するために、まず問題点や課題を明確にし、競技力を向上させるために何が必要かを分析し、父であるコーチと二人三脚で取り組んできました。
スポーツは、自らの能力を向上させるために、いかに課題と向き合い、徹底的に研究し、それをどのように克服していくかというプロセスが非常に面白いものです。
軽い体重でも、ハンマーヘッドに対してどのようにして運動エネルギーを高めることができるかを追求し、その結果としてパラメータ励振理論を基にしたハンマーの加速方法を実現しました。また、ライバルに負けない技術を考案することもできました。
- 学生時代にはインカレを4連覇。1994年の広島アジア大会では2位。1995年の第79回日本選手権では大会初優勝を果たす。以降、1998年まで日本選手権優勝し続け、最終的に20連覇を達成する。
順風満帆に見える室伏氏だが、『大きなスランプのひとつ目が大学時代でした』と語っている。
Profile
室伏 広治 氏
1974年静岡県沼津市生まれ。日本のハンマー投選手、スポーツ科学者、陸上競技指導者。2004年アテネオリンピックのハンマー投競技にて金メダルを獲得。陸上・投擲種目で金メダルを獲得したのはアジア人初。ハンマー投のアジア記録・日本記録保持者。日本選手権では前人未到の20連覇を達成。国際オリンピック委員会文化五輪遺産委員、国際オリンピック委員会アスリート委員など要職を歴任し、2020年からは
スポーツ庁長官を務める。2004年、紫綬褒章を受章。