高度経済成長に湧いた1960年代。未曾有の好景気が日本経済を力強く押し上げ、明るい70年代が待っているはずだった。
ところが、1971年の「ニクソン・ショック」、1973年の「石油ショック」と立て続けに日本史に残る経済事件が勃発。日本の好景気は終わりを告げる。
狂乱の1970年代初頭、後の日銀総裁である黒田氏は官僚としてつぶさにその様子を見ていた。黒田氏は狂乱物価の時代になにを考えていたのか?
取材・文/山口和史 Kazushi Yamaguchi 写真/西田周平 Shuhei Nishida
戦後日本経済成長の「終焉」。歴史的事件を目撃
― 大蔵省では秘書課に配属された。外国出張する職員の世話や、総合職(当時の上級職)の採用をサポートするといった業務を手掛けた。
黒田 東彦 氏 (以下 黒田氏): 「財政金融政策の下働きができるかと思ったら、秘書課。言ってみれば人事ですからね。全然財政金融政策に関係ない仕事ばかりでした。
― 秘書課で務めた2年間で組織のあり方について学んだ。
黒田氏 : 官庁のような巨大組織では、個人の希望や特性だけではなく、全体最適や将来のキャリアパスを考えつつ人事配置を行うわけですね。ですから、その後の人生で人事について希望を言うことは一切しませんでした。
― 1967年に入省してから年に財務省を退官するまでのおよそ30年間で数え切れない役職に就いたが、すべて「言われるがまま」。本人の希望は伝えなかった。
黒田氏は官僚として60年代後半以降の日本の経済史とともに歩んできた。教科書に載るような出来事が次々と起こった歴史でもある。
そんな黒田氏が記憶に残っている出来事がふたつあるという。
黒田氏 : 1971年の7月に理財局国債課企画係長に配属されたんですね。その頃は景気も良くて、国債を発行していると言っても年間で4,300億円、いまなら1週間分くらいですね。のんびりしていたんです。
そうしたら8月15日にニクソン・ショックが起こって1ドル360円の固定相場が崩れてしまいました。300円に向けてどんどん円高が進み、円高不況で大変だということで、公共事業で景気を下支えしないといけないという話になったんでしょうね。
4,300億円の国債を3倍の1兆2,000億円にしたんです。それだけの量を国債引受けシンジケートに引き受けてもらわないといけないわけですね。
とはいえそのまま進めても受け入れてくれませんので策を練って、当時は国債は7年国債だった。そのときに10年国債にしたんです。期間が長いほど金利が高い、そう主計局を説得したんですね。ちゃんとした理屈でもないんですけど(笑)
― 以来、国債は基本的に長期国債は10年に、社債も7年から10年に変更されている。
黒田氏 : ニクソン・ショックからのひょうたんからコマみたいな話なんですけどね。これは非常に印象に残ってますね。
― もうひとつの出来事は1973年に起こった。
黒田氏 : その年の7月に国際金融局企画課長補佐になりました。そこで資本規制の担当になりました。このころはさらに円高にはしたくない、資金が出ていくのは賛成、入ってくるのを止めようという感じだったんですね。
それが、1973年の9月から始まる第一次石油ショックで一変しました。いま見れば安いものですが、1バレル3〜4ドルだったのが、半年で4倍の12〜13ドルになりました。
それまでの国際収支は黒字で、資金が入ってくると困るから出せ、入るのを止めろと言っていたのが全部逆転して、どんどん入れろと。それで出るのを止めろと言う話になって、対外直接投資は金融機関にも許可しないことになりました。
当時、指定証券会社には包括許可を出していたんですね。それをある日、証券会社を呼んで包括許可はできませんと。流入規制、流出自由を逆にして、流出規制、流入自由に変えたんですね。そんなことが当時の外為法でできたんです。そういうふうに状況が一変するんです。
― これらの変更は事前に外部に情報を漏らすわけにはいかなかった。そのため、すべてを秘密裏に進める必要があった。
黒田氏 : 普通、そういう重要な決定だと局で決めて、次官室で打ち合わせして、大臣室でやってと進めていきます。大臣の決済が必要ですからね。
ですが、そんなことをやっていると廊下を新聞記者が歩いているからバレてしまう。そこで、担当審議官が決裁文書を密かに持っていって大臣と話をつけて一気に進めるんですね。この時期のこともよく覚えています。
― ニクソン・ショックと石油ショック、この経済的なショックで日本経済の高度成長は終わりを告げた。ニクソン・ショックで円高になり、石油ショックで石油価格が高騰。この両面からの影響が、戦後から続いていた好景気を終わらせた。その歴史の舞台裏に、黒田氏がいた。
Profile
黒田 東彦 氏
1944年、福岡県生まれ。東京大学法学部卒業後、大蔵省(当時)へ。
1999年から2003年まで財務官、2003年から2005年まで内閣官房参与、2005年から2013年まで第8代アジア開発銀行総裁、2013年から2023年まで第31代日本銀行総裁を務める。
日銀総裁退任後は政策研究大学院大学特任教授、京都大学経営管理大学院特命教授に就任。
2024年、瑞宝大綬章受章。