第99代内閣総理大臣を務めた菅義偉氏。
本誌発行人の元榮太一郎は参議院議員時代、菅政権のもとで財務大臣政務官を務めている。
政権内部から菅氏の活動を目の当たりにした元榮が、当時の思い出や総理として感じていた想いについて話を聞いた。
写真/品田裕美 Hiromi Shinada ・ 福田貫吏 Kanri Fukuda
安倍政権は若年層のために力を尽くした
元榮:今回、菅先生にお忙しい中お時間を頂戴し、ご登場いただくことになりました。本当にありがとうございます。まずは先日の国葬儀、お疲れさまでした。菅先生がお読みになられた弔事は私も非常に感動いたしました。
菅:安倍さんに最期、お礼を言う機会でしたから、私も結構勉強したんですよね。
元榮:私はあの日、参議院議員会館から武道館までバスで移動したのですが、その道中で献花をするために並んでいる長蛇の列を目にしました。並んでいる方々の顔ぶれを見ますと、20〜30代の若い方がたくさんいらっしゃって、安倍先生はあらゆる世代に慕われていたんだなと感じていたところ、菅先生が弔辞の中で「20〜30代がたくさんいる」と言及されました。
菅:あそこは私の中でもひとつの勝負だったんです。安倍政権は若い人たちにお金を移そうとしたんですよね。そういった想いが伝わったのかなと思います。70年談話でも、それまで「日本は悪い国だ」ということばかり言っていたのを断ち切って現役世代にはいかないようにしたり、そういうのがいろいろな意味で効いてきたのかなと思いました。
第二次安倍政権は8年間続きました。そうなると、今年大卒で入った私の事務所の秘書も「総理大臣といえば安倍さんだ」とこう言うんですね。だからこそ、あんなに早くいなくならないでほしかったと思いますよね。
元榮:弔辞では、第二次政権誕生前に安倍総理を銀座の焼き鳥屋で3時間説得し、ようやく首を縦に振ってもらったという下りがありました。最終的に菅先生の説得を受け入れたのは、なにがきっかけだったんですかね。
菅:やはり安倍さんは現状に憂いていたと思うんです。当時の外交安全保障は最悪でしたから。
日米同盟は完全に機能不全に陥っていました。あのとき言ったんです。中国の漁船が尖閣諸島で暴れて逮捕したのに、圧力に屈して放免してしまいました(尖閣諸島中国漁船衝突事件)。
ほかにもロシアが北方領土に足を踏み入れたり、韓国の大統領が竹島に行ったり、あれは全部野党政権のときなんですよ。こんなことでは日本が壊れてしまうじゃないですかと。
80年代に日本は「ジャパンバッシング」(欧米諸国が日本を経済面・政治面で不当に攻撃すること)と言われていました。しかし、このままでは「ジャパンナッシング」になってしまう、そういった内容の話をした覚えがあります。
また、東日本大震災以降、野党政権のときに日本経済は「六重苦」と呼ばれた状況に陥り、国民は働く場所がありませんでした(①円高、②高い法人税率、③厳しい労働・解雇規制、④経済連携協定の遅れ、⑤厳しい温暖化ガス削減目標、⑥電力不足の6つを指す)。
当時、安倍さんは日本経済再生のための勉強会を開催していました。「あなたはそれらを実行するために勉強しているんじゃないのか」とガンガン言ったんです。そうしたら、最後は首を縦に振ってくれました。やはり、国の将来を憂いていたからだと思うんですよね。また、一度総理を経験していますから、次はこうしていこうと自分の中でも練っていたんだと思います。
元榮:一度経験して再登板というのはとても良かったですよね。
菅:私も良かったと思います。年齢もまだ若いし、良かったと思います。
決断の実行に必要なのは「正義がそこにあること」
元榮:私も今年の7月で参議院議員としての活動はいったんお休みさせていただきましたが、最後、菅総理のもとで財務大臣政務官を務めることができて本当に光栄でした。
菅:しっかりと政治主導できたと思いますよね。
元榮:おっしゃるとおりだと思います。私が法務委員会の理事をやっていたときに入管法の改正がありました。やはり人が減って栄える国はありませんので、当然、出生率を高めるための政策は大切ですが、優秀な意欲ある外国人の人に来てもらうという意味では非常に英断だったと思います。
菅:「日本という国は、外国人が働きに来たい国だ」とみな思っていたんですね。ですが実際はそうではないんです。韓国をはじめ世界各国との競争があるわけです。そこで、外国人が来やすい国にして、安定して生活できる国を作るべきだと思って進めたんです。
元榮:当然、日本人の生活、さらには日本の文化・伝統の保持はとても大切ですが、一定の数の外国人をしっかりと仲間にしていかないといけないと思っています。
50年後には1000万人くらい外国人が住めるような道筋をつけられたのはすごいことですよね。ああいう政策を進めるにあたっても霞ヶ関の抵抗はすごいんじゃないですか?
菅:すごいというか(笑)、大変ですよね。
元榮:お伺いしたいのですが、総理のときには総理が決断すれば周りは動かざるを得なくなるのか、それとも内閣人事局などを使ってかなりグリップしていかないと難しいのか、どちらの印象をお持ちですか?
菅:そこはやはり誰から見ても正しいこと、正義の大義名分がないと押しきれないですよね。そこが違いますよね。
元榮:正義を磨くというか。
菅:たとえば携帯電話の料金値下げだって反対する人はいっぱいいるわけです。だけどどう考えてもおかしいじゃないですか。それは変えるのが正しいことなんだとと、強い信念がなければ進められないし、役所の人もそういった部分を見ているんじゃないですかね。
元榮:菅先生は長年安倍政権のもとで務められた官房長官から総理大臣となられました。いわばナンバー2である官房長官と、名実ともに国のトップである総理大臣とでは、プレッシャーや覚悟などもやはり相当に異なりますよね?
菅:それはぜんぜん違いますよね。総理大臣時代に感じたのは、いかに安倍さんに助けられていたかということでした。たとえば、外交安全保障政策に関して、私は安倍さんには到底及びませんから、安倍政権のときの政策を踏襲していくことを考えていました。また、総理大臣というのは国全体を見なければならないんですよね。そのプレッシャーや責任感というのはとても大きなものでした。
元榮:官房長官時代から総理大臣時代にかけて、どのような点が難しいとお感じになられていましたか?
菅:自分の性格もありますが、尖閣諸島問題は一番怖かったですよね。中国の漁船が民主党政権時代に尖閣諸島でトラブルを起こした。当時、ああいうことが起こったときに、どのような手順で対処すればよいのかをイチから全部決めていきました。あれ、法律で国土の対応は警察が行うとなっているでしょう。警察をどの時点で尖閣諸島に送るのかなど、当時なにも決まっていなかったんですよ。
元榮:そのへんをすべて作っていかれた。
菅:やっていましたよね。現場の人を呼んで。あとは、処理水放出の判断も印象に残っていますね。あれはこれ以上審議を重ねても、時間を掛けても状況は変わらなかったんです。海洋放出しかなかった。
私たちも福島の復興なくして国の再生なしとずっと言っていたわけですから、どこかで決断をしなければなりませんでした。
元榮:さまざまな決断の背景をお伺いすることができて、大変勉強になりました。本日は貴重な時間をありがとうございました。
菅:こちらこそありがとうございました。楽しい時間でした。
(2022年9月30日取材)