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22年3月、Jリーグ史上最年少、初の元Jリーガーチェアマンが誕生した。
公益社団法人日本プロサッカーリーグの第6代理事長に就任した野々村芳和氏は、もともとジェフユナイテッド市原、コンサドーレ札幌で活躍したJリーガーだ。
引退後、解説者を経てコンサドーレ札幌の社長に就任。就任からわずか6年で、どん底のチームを立て直した経験も持つ。
元Jリーガーとして新たな道を切り拓き続けてきた野々村氏は、どのような半生を送ってきたのか。
今後のサッカー界をどのように変えていくのか。
取材・文/山口和史 Kazushi Yamaguchi 写真/西田周平 Shuhei Nishida
「サッカーが上手くなりたい」それだけを考えていた個の時代
- 小学時代からサッカーを始め、中学、高校、大学と圧倒的な実力でキャプテンを務め、当時まだ発足間もなかったJリーグの選手として脚光を浴びる。
引退後は解説者を経てクラブ経営者となり、売上を6年間で3倍にまで伸ばす。2022年3月にはついに、史上初となる選手出身のJリーグのチェアマンを務めるにまで至る。
そんな人生を「決して順調ではない」と振り返る。
たしかにその半生は、波乱万丈の運命に翻弄されている。
が、その経験こそが個の確立から強い信念で組織を率いるリーダーへと、もがき苦しみながらモデルチェンジを果たせた成長の要因になっている。
静岡県清水市(現・清水区)。サッカーの強豪地域と知られるこの街に、野々村氏は生を享けた。ソフトボールをしていた時期もあったが、長じるにつれて自然とサッカーを始めていた。
サッカーが性に合っていたんだろうと野々村氏は言う。みるみる頭角を現し、小学3年生で市内のセレクションに合格。選抜チームのメンバーに選ばれる。
病に苦しみながらも中学、高校と中心選手として活躍を続け、いずれもキャプテンを務める。卒業後は慶應義塾大学に入学し、当然ながらサッカーを続けていく。
入学後、20歳を迎えた1992年に人生を変える大事件が起こる。Jリーグの発足だ。
野々村芳和氏(以下、野々村氏):テンション上がるよね、あんなの見せられたら(笑)。大学に入った頃にはまだJリーグなんて影も形もありませんでしたから、大学では楽しくサッカーをやろうかなと思っていたんです。
でも、あの発足の様子を見たらJリーグでやりたくなりますよ。また、当時は大卒1年目の選手でも給料が良かったんですよね。サッカー少年にとっては夢の世界が突然現れたような感じでした。
- 大学時代には長く患っていた心臓病を克服。2年連続で関東2部の優勝を果たすなど活躍を続け、スカウトからも注目が集まる選手へと成長していく。
複数のチームによる争奪戦の末、ジェフ市原に入団が決まる。加入の決め手は「一番条件が良かったから」。
自分に合ったチームなのか、やりたいサッカーができるのか、指導者や監督との相性などは考慮に入れないJリーガーとしての船出だった。
野々村氏:あの頃は選手として活躍したいという思いしかありませんでした。サッカー選手における成功とはなにか、ということも分からなかったんですよね。いい選手になって高い給料をもらうのが成功というくらいしか価値判断がなかった時期です。
- 1995年から1999年まで所属したジェフ市原。当時はまだ若くギラギラしていた。チームの勝利を求めるものの、「オレがオレが」との気持ちも強かった。
そんな野々村氏に転機が訪れる。2000年、コンサドーレ札幌の監督に就任した岡田武史氏から「一緒にやろう」と声がかかり、移籍を決意する。
野々村氏:札幌に行って岡田さんと仕事をし、チームが勝つと周りが喜ぶということに思い至って、サッカーの選手としての成功ってこういうことなのかもしれないと思うようになったんですよね。あの時期の成功体験は自分にはなんらかの影響は与えてくれているんじゃないかと思います。
- 自分が活躍できればいいという「個」の時代が終わろうとしていた。
元日本代表監督・岡田武史氏。彼との出会いが人生を変えた
- 岡田氏は野々村氏の持つ強いリーダーシップを高く評価していた。ある日、チームのメンバーに対してこんな指示を出す。
「ピッチ上では野々村の指示に従え」。
「サッカーが上手くなりたい」それだけを考えていた個の時代元日本代表監督・岡田武史氏彼との出会いが人生を変えた。
野々村氏:ゲーム中、いろんな局面があるわけですよね。前からプレッシャーを掛けるとか、一回みんな下がろうよというような。そういった動きを選手たちがシンクロしてできるかどうかで、その戦略が効果を発揮できるかが決まるわけです。
その指示をピッチ上では野々村が出せと岡田さんが選手たちに言うんですよ。仮に野々村の指示が間違っていたとしても言うことを聞けと、岡田さんはよくみんなに言っていたんですね。そうなると僕としては責任感を覚えるようになりますよね。その時期からいろいろなことを考えるようになりました。
- チームが勝つためにはどうすればいいのか。ルーキーの選手がいる。
彼が不安げにグランドに立つのか、思い切って自信を持ってプレイするのかでチームの結果は大きく変わる。
その選手をどう扱ったらいいんだろう……。
野々村氏:結局、言葉だと思うんですよね。声掛けです。
ただ、そのときだけ声を掛けても意味がなくて、普段、みんなとどういう雰囲気でどんな会話をして、どういった見せ方をしておくかといったことまで考えておかないと、いざというときに効果が出ない。そんなことを一所懸命やるようになりました。
- チームが勝つと喜んでくれる人たちがいる。その人たちに勝利を届けるために必要なことをより効果的に行うためには、日々の生活が大切だということに思い至る。サッカー選手として新たな視点を得た野々村氏が率いるチームは、J2優勝を果たし、翌2001年にはJ1へ昇格。主将としてチームを牽引し、無事J1残留を決める。
選手として脂が乗りきった時期。チームも順調だ。29歳のいま、あと5年くらい選手を続けて、その後はどうにでもなるだろう。
そう考えていた野々村氏に思いもかけない事態が起こる。
野々村氏:コンサドーレが契約しないって言うんですよね(笑)。僕はそれが信じられなくて、なんだコレと思ったんですよ。
その後、他のチームからもたくさんオファーをもらったんですけど、コンサドーレから契約を延長しないと言われたことに腹が立ったというか、自分の中で処理ができなくて、この世界はもういいなと思っちゃったんです。
- まさに青天の霹靂。まったく想像もしていなかった。「気持ちが切れてしまった」と語る野々村氏は、現役を引退しサッカー解説者へと転身する。
成長する組織には理由がある。伸びるチームの「法則」
- 年間200試合以上の解説をこなす日々。勉強のために見た試合はその数倍になる。
ピッチ外から初めてサッカーを見たこの時期に、さまざまなことを学び吸収する。
野々村氏:上手くいくクラブはどんな空気感なのかといったことが感じられるようになりました。たとえばJリーグで現地に解説に行くと、このクラブとサポーターの関係性は良いなと思うクラブが昇格するとか優勝するとか、いくつか実際に見ることができたんですよね。外側から見ることで、選手には見えないものが見えるようにはなりました。
- 上手くいくチームには法則がある。スタジアムやファン・サポーターからポジティブな声が集まること。これが大きいと野々村氏は語る。
野々村氏:たとえばホームアドバンテージの有無って、若い頃は全然分からなかったんですよね。
アウェイで勝てないのは自分たちの能力が足りないからだと思っていました。でもやっぱり、札幌ドームが満員になると勝てるんですよ。勝てる可能性が上がるんです。また、その空気感こそが、そのクラブにとっての最大の売り物だとも思うんですね。
勝てる可能性も上がるし、そんな空気感を感じたらライトなファンもスポンサーも、魅力的なチームだと考えるし、なにかを起こせるのではないかと思えるようになる。それがサッカーには一番大事だと思うんです。そういうことを確信していく時期でした。
- 2012年、現役引退から10年後。コンサドーレ札幌はどん底にいた。
前年にJ1に昇格したもののこの年は4勝2分28敗で最下位。J2への降格が決まる。
経営的にも売上はやっと10億円。債務超過が4千万円と苦境にあえいでいた。
そんな様子を見た野々村氏は、「白い恋人」で知られる石屋製菓の名誉会長(当時)の石水勲氏に「社長になってください」と直談判に行く。
野々村氏:会社を立て直してほしいとお願いしたら、分かったと言ってくれたんです。
ところが、その1週間後に電話が掛かってきて『お前がやれ』と。
- 驚いた野々村氏だったが、新しい道を切り開くチャンスと捉えてオファーを受けることになる。Jリーグ初の選手出身のクラブ経営者が誕生した。
その哲学が周囲を変える。メッセージを地域に届ける
野々村氏:僕は2012年12月の頭に社長をやれと言われました。そのときには当然、翌シーズンの予算が決まっていて強化費は1.9億円でやれと言われていたんです。でも、1.9億円でそのままやっていたら、いまのコンサドーレはありません。
現在、チームの中心選手として活躍している宮澤裕樹という選手は、1.9億円の予算ではそのときに放出しないといけない状況でした。それではもうチームは再生不能になるので、頼むから3億円でやってくれとお願いをして、足りない分はオレが稼ぐと説得することから始めました。
- 野々村氏はまず、将来クラブが軌道に乗ったときに中心になってもらわなければならない選手すら放出しなければならない状況を回避し、人材を確保した。
次に手掛けたのは、サポーターやスポンサーに状況を共有することだった。
野々村氏:この予算では勝てるわけがないということをしっかり伝えました。現状のクラブは下から数えたほうが早いような規模のチームなんだと、いつも応援してくれるサポーターに話をしました。
相手チームと10億円の差があるなら、この差はホームゲームで皆さんが作ってくれる雰囲気で埋めましょうと訴え続けたんですね。
僕は埋まると信じていますから。サポーターやスポンサーと目線を合わせていくと、うまくいかないゲームがあったとしても、しょうがない、次に行こうよという雰囲気になるんです。
- コンサドーレ札幌の社員には別の側面から鼓舞し続けた。当時の社員はわずか40人。
でも、コアなサポーターが1万人いるのなら、その人たちは一緒に良い空気を作ってくれる仲間だ。オレたちは40人の企業ではなく、1万40人の会社なんだ―――。
解説者時代に培った発信力が活きた。野々村氏の思い、信念は徐々に社員はもとより、サポーターやパートナー企業に届き始め拡散していく。
野々村氏には「サッカーは最高のコンテンツだ」という不動の信念がある。その信念が、札幌を中心とした地域に徐々に浸透していく。
野々村氏:営業のやり方も変わっていくんですよね。『お願いします、コンサドーレを助けてください』という営業から、『うちのクラブにはこんな未来がありますから、一緒にやりましょう』と言えるようになったんです。
サポーターもパートナー企業も、このクラブにはこれだけの可能性があると分かってもらって仲間が増えていきました。
- チーム立て直しのための施策にも着手した。目をつけたのは東南アジア。若く伸びしろのある選手をチームに迎え入れて刺激を与えると同時に、コロナ禍前にはインバウンドも期待できた。
巨額の補強予算を持たないクラブだからこそ、さまざまな工夫や新たな視点を取り入れ、クラブの可能性を引き出していった。
野々村氏:さまざまな種を仕込んでいきました。チームの将来を見越して小野伸二や稲本潤一といった、元日本代表クラスの選手を獲得したのもそのひとつです。クラブを成長させていくためには小野がグランドで若手にたくさんの良い影響を与えることも必要でした。
引退したあとも彼がいるかいないかで変わると思うから、5年、10年先を考えたら、いま誰を取りに行くかということは考えなきゃいけない。サッカーをやっていたからできる判断と、中長期の経営を考えたときにどんな選手を取らなければならないかといった判断を組み合わせて、取るべきだと決めました。
- さまざまな方面から改革を施した結果、2013年の社長就任から6年後の2019年には売上を3倍に伸ばしている。この成功の裏には、「サッカーは最高のコンテンツ」という信念と、現役時代に培った哲学があった。
試合、スタジアム、サポーター。三位一体の魅力がサッカーという「作品」
- 迎えた2022年3月、野々村氏は元Jリーガーとして初の、そして歴代最年少のJリーグチェアマンに就任した。本人は「自分には分からない」と謙遜するが、コンサドーレ札幌を立て直した経営手腕を見込んでの就任依頼だったことは想像に難くない。
野々村氏:地元のクラブに関わるのは幸せだなと思ってくれる人をどれだけ増やしていけるかですよね。それぞれの地域のクラブが一番好きだというサポーターを増やすことが一番大事だと思うんです。
もちろんそれはクラブがやるのですが、リーグとしてどこまでその思いを汲んでサポートしてあげられるかだと思うんですよね。
今はJ3で観客も1,000人しか入っていないかもしれないけど、一所懸命に盛り上げて2,000人入るようになった。クラブによって幸せになった人が2倍になったらそれは大成功です。
そんな大きな可能性を秘めたクラブが日本全国にあるわけです。それぞれの地域でそんな人たちが増えたら日本は幸せになりそうじゃないですか。
そのためには愚直にやるしかないんですよね。各地域で。
- 半生をサッカーとともに過ごしてきた野々村氏が導き出した「答え」がある。サッカーという最高のコンテンツを構成する要素は一体なにか。野々村氏は知っている。
野々村氏:僕はサッカーは作品だといつも言うんです。その構成要素はピッチ上でのレベルの高い試合だけではないんです。ファン・サポーターが『あそこに行ったら楽しい』と思ってくれるスタジアム。出店なんかも含めてね。
そして、そのスタジアムの中でゴール裏のサポーターが作る熱量のある雰囲気。この3つが組み合わさって作品になる。ピッチ上のゲームだけではないんです。
- サッカーは選手のレベルだけではなく、スタジアムと地域のサポーターで作り上げるもの。ならば、J3だから価値がない、代表だから最高というわけではないことになる。
野々村氏:サッカーのレベルだけではないんですよ。地域の人達たちが作るスタジアムとサポーターも含めた作品ですから。J3は、J2、J1に比べたらサッカーのレベルは低いかもしれない。
でも、地域の人たちの熱量はすごい! というクラブを作れたら、それはもしかしたらJ1の試合よりも価値があるものになるかもしれない。サッカーってたぶんそういうことなんですよ。
- 上手くなりたい、活躍したいと願って練習に打ち込んだひとりのサッカー選手は、不断の努力と逆境を乗り越えた経験を経て、日本全国を視野に入れたチェアマンへと成長した。
クラブ経営者として数々の成功を収めてきたその手腕が、いよいよリーグ全体に活かす時が来た。今後の活躍から目が離せない。
Profile
野々村 芳和氏
1972年、静岡県清水市(現・静岡市清水区)生まれ。
第6代日本プロサッカーリーグ理事長(Jリーグチェアマン)。慶應義塾大学卒業後の1995年にジェフユナイテッド市原に入団。
ミッドフィールダーとして活躍する。コンサドーレ札幌に移籍後、副主将・主将としてチームをJ1昇格、残留へと導く。
引退後、サッカー解説者を務めていたが2013年にコンサドーレ札幌の社長に就任。
2022年3月15日からは日本プロサッカーリーグ理事長を務める。Jリーグ出身のチェアマン就任は初めてのこと。